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濃姫を追いかけて・・・

DVDを愛する皆さんこんにちは!!

最近、おちゃらけた記事が目立つとご指摘を受けたので今日は

私の専門である歴史ネタをお送りします。

以前「夢幻のごとく・・・」の末尾に濃姫について言及いたしましたが、その時は不可解な終わり方

に記事がなってしまったので続きを書きます。

 信長公正妻 濃姫

美濃国出身です。濃姫は後世に作られた名前で本名は帰蝶と言います。生没年は諸説ありいまだ

定説をみませんが、織田家に嫁いだ時は15、6歳だったのではないかと言われています。

この時代の正史である1級資料「信長公記」(太田牛一著)には美濃国から嫁いだという記述

以降ぱったりと足跡が途絶えてしまっており、そのため死亡説、追放説、殺害説、病死説と

諸説入り乱れることとなりましたが、歴史研究家の岡田正人氏が近年、濃姫に関する論考を

発表、その研究の結果、公家の日記などから正室の座を守り通し本能寺の変の後も存命し、弟に故郷

美濃の国を再興させるなど、政治的活動を行っていたことがうかがえます。

大河ドラマでは本能寺の変に巻き込まれて夫信長と運命を共にする姿が描かれていますが

これは創作で、実際は本能寺の変の際は安土城におり、事件の数時間後には安土城を退避していま

す。晩年は「安土殿」の名前で織田信雄分限帳に登場し、600石を支給されています。

また大徳寺総見院でも長らく誰のものかわからない墓があり議論を呼んでおりましたが、調査が

進むにつれて位置関係から濃姫の墓ではないかと現在では言われています。碑文からは戒名と

慶長年間に没したことが読み取れ、この墓の菩提が濃姫だとすれば70代後半まで存命したことになり

ます。また静岡大学教授の小和田哲雄氏は明智光秀といとこ関係であったとしており、歴史研究家の

八切止夫氏は多くの批判を受けながらも、「信長殺し光秀ではない」で濃姫が本能寺の変の黒幕で

あったと論を主張しています。このように近年、濃姫に関する研究がかなりすすんでおりますが

その容姿や人柄についてはまだ不明な点が多く、研究の更なる進展を待つ状況です。

 いかがでしたでしょうか、本日は濃姫の記事をお届けしましたが、それはそうともうすぐ8月、

8月は日本人にとって特別な月です。65年目の今年もまた暑くなりそうですね・・・。

社会派映像制作会社岩波映像が販売している「昭和二十年」一度是非ご覧になってみてください。

よろしくお願いいたします。

エムディスク営業部部長兼広報担当 山岸 鉄兵

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2010年07月13日 13:31に投稿されたエントリーのページです。

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